そして中学校入学。正直中学校時代の想い出はあまりいいものではありません。とても辛い日々でした。入学当初も小学校の時と同じように、養護学校への入学を薦められましたが小学校も普通にこれたんです。ほとんど行けませんでしたが、多くの先生方のやさしさと配慮で6年間を過ごすことが出来、最後は多くの先生方のはからいと理解と配慮の下、修学旅行まで行けたのです。ここでも両親は食い下がりました。しぶしぶ校長も養護教員も折れ、入学は出来ましたが、これが悪夢の始まりでした。中学に入学するころになると、私の体は限界で、立っているのもやっとの状態。病魔は確実に私の体を蝕んで行ったのです。保健室しか登校できませんでした。そして体調が悪く一日でも休むもんなら具合が悪かろうとお構いなし。保健室の先生からの電話の嵐です。それはどんどんエスカレートしていきました。それも「大丈夫?」という体を気遣う内容のものではなく一方的に「早く学校きなさい。何してるの?」というもの。何してるのって…発作で大変なのに、いたわる事を知らない教員ばかりでした。担任はもっとひどかったです。母がクラスのみんなに病気である事、骨が弱いのでぶつかるだけで簡単に骨折し、現に小学校でも生徒とぶつかり鎖骨を折っているので注意してほしい事、感染症が危険なので、その点も留意してほしい事を伝えると担任であった女性教師は笑いながら「そんなの自分で伝えなさいよ。休みが多かったら自然とあぁあの子は病気なんだなって思うわ」という冷たい、馬鹿にされたような言い方をしました。この瞬間思いました。この教師に何を言っても無駄だと。そしてこの担任からも家にいると電話の攻撃は続きます。次第に電話が鳴るたびにビクビクし、電話に恐怖を覚え、電話線を引き抜き繋がらないようにしました。ノイローゼ気味になったのです。もう何も聞きたくない。何も見たくない。それでも携帯への電話、メール、本当に毎日地獄でした。あんなに好きだった、行きたかった学校がこの日を境に学校は行きたくない場所になってしまったのです。小学校とのえらい対応の違い。こんなのが教育の場であって良いのでしょうか?こんな人が教師になってしまっていいのでしょうか?どうしても後に疑問符を付けさざるを得ません。病気は確実に悪化して行きます。私は学校よりボランティアとしての道を歩むことになります。学校に行かないのにボランティアをしている事を否定する人もいるでしょう。でも私は学校で学ぶよりも素敵な事をボランティアで学ぶ事になります。そして決定的な事件がおこりました。私は小学校の頃から学校に滞在できる時間は1時間、長くとも2時間までと決められていました。そして点滴してから学校へ行くというのがお決まりだったのです。なのでもう慣れっこで私にはそれが当たり前の日常でしたから、遅れて堂々と正面玄関から入ったのです。そこへ運悪く上学年の生活指導の教師に見つかりました。私は別に悪い事をしている訳ではないのでそのまま保健室に行こうとすると呼び止められ、「遅刻だぞ!校庭1週走ってこい!!」そう言われました。冗談じゃない。点滴してきた事、心臓病である事を伝えてもこの先生の耳には私の声は聞こえていませんでした。この人に何を言ってもダメだと悟った私はもうどうでもなれと思い、走りました。走れる訳ないじゃありませんか。20mも行かないうちに意識を失いその場で倒れ、気づけば病院のICUでした。不整脈による心停止、そのまま意識が3日間戻らなかったそうです。のちに問題となった教師、校長、保健室教員、養護教員が謝罪しにきましたが、両親は特に父親は許せず、主治医もこの事態を深刻に受け止め、教育委員会に報告し、裁判になりました。私は奇跡的に一命をとりとめましたが、決して許せる事ではありません。結局、その問題教師を二度と教育の場に立てないようにする事で事件は和解しました。

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