事件は和解したものの、終わってはいません。ちょうど2年生の進級の時だったので主治医から完全なる通学ストップがかかり私は2年生になったのを機に学校を休学しました。それ以来一度も学校へ足を踏み入れた事はありません。2年生も1年の時と同じ担任でした。そして始業式の日に母に向かい、とんでもない言葉を浴びせました。「病気になったのはお母さんの育て方が悪いからですよ。弱い子どもになるんです。」母は激怒し、私も憤りを感じました。あの教師の事は今でも許す事が出来ません。私の事はともかく、母を侮辱した事だけは。毎日のようにかけてはどんな汚い手を使ってでも学校に来させようとした保健室の教員からも担任からも電話はかかってきませんでした。そして何の音沙汰なく、丸1年がすぎてしまいました。その間にも病状は進んでいます。そして2年の終わりに差しかかった頃、やっと担任から電話がありました。保健室教員と2人で家庭を訪問し、今までの事を謝罪してくれました。1年間ほったらかしにしていた事も。心の底から謝罪していたのかどうかは分かりません。でもあの人たちの口から「ごめんな」という言葉を聞き、私は初めて彼らのことを許せるような気がしました。私はそう、ただ謝ってほしかっただけなんです。誠意を持って向き合ってほしかっただけなんです。話を聞いてほしかっただけなんです。そして3年生になりやっと担任が変わりました。その担任は女性でしたが私には相性があう先生で、彼女は物をハキハキ言う点は前の教師と変わりませんでしたが、彼女にはやさしさがありました。無理に学校へ来させようとはしなかったし、何より病気の事を分かろうと努力してくださいました。それに何よりもうれしかったのは、毎月必ず家に来てプリントを届けてくれたことです。その際にいろいろ話をしました。一緒に雑誌を読んだりビーズをしたこともあります。私は彼女を信頼しようとし、心を開き始めていました。2年生の1年間ほったらかしにされ、見放された想いが強かった私は毎月来てくれる、メールもくれる彼女が大好きでした。3年生の6月ごろから市の訪問教育サービスを受け始めます。これは大阪市だけが独自で行っている支援サービスで、不登校やひきこもり児を対象に家庭訪問支援を行う制度です。主に大学生が派遣され、あそびや話し相手、勉強と言った支援をします。私はその支援サービスを2年生の担任に薦められました。しかし私はその活動の趣旨に抵抗がありすぐには返事が出来なかったのです。私は不登校でもないし引きこもりでもありません。感染に対しての制限がなければ積極的に活動する子どもです。しかし私は一刻でも早くどんな形でも勉強をしたかったので訪問教育サービスを受ける事にしました。そこで出会った大学生の方ともとても親しくして、勉強以外にも一緒にビーズをやったり雑誌をみたりと、そんな生活が9カ月続きました。その制度も義務教育卒業までで切れてしまいました。そして卒業を迎えます。残念ながら卒業式にも医師の許可はおりませんでしたが、後日クラス全員が家に来てくれ、私だけの卒業式を開いてくれたのです。感染症の危険からほんの数分しかなかったけれど、突然の事に嬉し涙が止まりませんでした。会った事も、話した事も、一緒に授業を受けた事もない子たちです。それも先生に言われた訳ではなく、みんが一人一人の想いで来てくれた事でした。クラス全員からの「卒業おめでとう!」の言葉。私にとって「卒業」とは「学校」とは何だったのでしょうか。一度も会ったことがない彼らは私のことを「クラスメート」と思っていてくれたのです。中学生活は本当に苦しい辛い思い出でしか思い出せません。でも、この時期に私はボランティアという世界に入り、沢山の方々と接してきました。そこで学んだ事、得た事、学校で学ぶ事よりはるか大きな事を私は学ぶ事が出来たように思います。

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