次に派遣されたのは在宅サービスステーションのディサービスでした。同じように面接を受け、この日は体調も悪く、方向音痴な私は道を間違えてどこへ行くのか分からないので、母に付き添ってもらい面接に行きました。そこで、勤務内容、労働時間、支援サービス内容、支援手順などを教えられ、最後に担当者の方の「私たちはいのちを預かっています」という言葉を今でも忘れることが出来ません。あの言葉は私にとって強い意思と介護への情熱を掻き立たせてくれました。ここは前の特養の件があるので、毎週土曜日午前中だけの活動にしてもらいました。初っぱなから焦り、無理をして自分の都合だけで辞める事はもう繰り返したくなかったからです。それが障害を抱えながら社会に一歩出た、社会への施設への利用者へのスタッフへの最低限のマナーと精いっぱいの配慮でした。そこである男性利用者O氏と出会います。Oさんは脳梗塞による右半身麻痺と軽度の言語障害がある男性でした。彼はこの施設ではちょっとした問題児だったのです。若い職員をみつけてはお尻を触る常習犯だったのです(笑)。案の定新しく職員として入り施設では一番若かった私にも魔の手が…。良くベテラン職員に怒られてました(笑)。でもそれは決して下心があるものではなく、コミュニケーションとしての一部だったので、私も怒りながら、顔は笑っていました。

そしてVrとしての活動も軌道に乗り出した頃、Vrを掛け持ちすることになりました。
病院内にあるディサービスセンターでの勤務、救命の資格をとり、一般市民に応急手当CPRを普及する団体(これは活動当初から関わりました)、身体障害児施設での活動、入院している子どもにあそびを届けるボランティア団体への所属です。
最初は高齢者の話し相手、レクリエーション活動などの支援が多かったのですが次第に業務内容はエスカレートしていきます。ディサービスに来ている利用者の通院介助、入浴介助、食事介助、御家族との連絡、送迎、人手が足りないと言われれば空いた時間に事務の雑用も手伝いました。養護施設での活動もほぼ同じことです。ただ、掛け持ちしてプラスになったことはレクリエーション活動の幅が広がったこと。ディサービスでのレクリエーションはリハビリにもつながり、そこで学んだ数々の技術や知識を養護施設での障害児たちにも応用することが出来ました。逆に養護施設でやっているレクリエーションも高齢者支援に応用でき、お陰でネタは尽きませんでした。
でも、それは長く続けるにはあまりにもハードな日々でした。毎日が本当に忙しく、朝早く出、帰ってくるのは時には父よりも遅かったこともあります。この頃が両親や主治医に一番心配をかけた時期だったように思います。心配はしていましたが、止めはしませんでした。いつも両親や主治医は私に好きなことをやらせてくれた。何も言わず、ただ見守ってくれるそのやさしさにただただ感謝する気持ちでした。どの活動場所も遠く、自転車で片道40分、電車で1時間徒歩で30分と、私の体にとって本当にきつい日々でした。帰る頃はもう全身真っ青で、息も絶え絶え、母の心配は、父の心配は相当なものだったと思います。何度も通勤途中で発作を起こし、意識を失い、主治医から「いのちの保証はない。今すぐやめなさい」と言われても、やめようとしなかった。どうしてそこまでVrにこだわっていたのでしょうか。私はこの時期、自分を見失いました。病気の進行と悪化の狭間で、前に進むことが出来なくて、後ろを振り替えることも出来ない、立ちどまることすら怖くて。私は必死でした。見失った自分をもう一度取り戻すためにも、生きる意味を再び見つけ出す為にも、病気と向き合う為にも、自分の居場所を確保する為にも、Vrは私にとってなくてはならない存在でした。

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